iPhoneが描く未来

2008 / 06 / 16

大変、大変ご無沙汰しております・・・。大きなプロジェクトが始まったことや、体調を崩していたことなどですっかりさぼってしまいました。申し訳ございません。復帰最初のエントリーは、携帯業界を震撼させているiPhoneについて短めに。

今仕様書をざっと読んでいますが、開発者から見れば本当に至れり尽くせりです。膨大な量の整理されたドキュメントがありますし、機能もiアプリ等とは比べ物になりません。まぁ、OSのすぐ上から動かせるので当然と言えば当然ですが。

残念ながら私はWindowsとUNIX系OSでしかコードを書いたことがないので、まだ実際にSDKでアプリケーションを作るところまでいっていませんが、伝わってくる評判も上々のようです。ちょっと気になるとすれば、マルチタスクではないので、一度に一つのアプリケーションしか動かせないことでしょうか。ただ、これも限られたCPUパワーとメモリを最大活用するためのApple流アーキテクチャのようです。

このiPhone、7月11日にいよいよ上陸します。改めてiPod touchをいじってみましたが、これから電話やメールがダイレクトにできるようになると思うと、確かにわくわくしてきます。

しかし、iPoneがガジェットとして素晴らしいのは疑いようがないのですが、果たして日本市場において「携帯電話」として受け入れられるのでしょうか?少し想像しただけでも、今のケータイ文化をけん引している若者たちが使おうとしたとき、メールの打ちにくさ(片手入力式キーボードがあるとはいえタッチパッドです)や、デコメが使えないことなどがハードルになりそうです。

これは飽くまで私の個人的な感覚なのですが・・・iPone単独の売上では、例えばソフトバンクがauのシェアをひっくり返す程の、500万600万台売れるようなインパクトはないと思います。よきにつけ悪しきにつけ、今の「ケータイ」と余りにも違いすぎていますから。ですが、iPhoneには「携帯電話はこうあるべきだ!」というAppleの(Steve Jobsの)強いビジョンを感じます。それは単なるスペックやUIだけではなく、AT&Tと締結したというレベニューシェアモデルや、SDKや、iTunesとの連携など、携帯電話を取り巻く全てを、ある意味で携帯電話文化そのものを提案しているのではないでしょうか。

さて、ついこの間各社の夏モデルが発表されました。ほとんどは折りたたみモデルです。ちょっと10年前の機種ラインナップを調べてみたら、折りたたみモデルなどほとんどありませんでした。折り畳みモデルのパイオニア、NECさんが頑張っていましたが、明らかに主流ではありません。それがほんの数年のうちに、折り畳みモデルがケータイのデフォルトであるかのようになってしまいました。

これはハードウェアだけの例なので単純には比較できませんが、既存の概念が広がっている中に新しいものが普及するには時間がかかります。ガラパゴスと言われるほど独自の進化を遂げた日本に、iPhoneが根付くにはきっと時間がかかるでしょう。ですが、Appleはその覚悟をもって、数年かけて携帯電話の在り方を根本から変えてしまおうとしているように思います。

Appleがその姿勢を貫き、素晴らしいコンセプト(端末だけではなく、携帯の周辺にある全て)を提案し続けるなら、数年後のケータイは全てiPhoneライクなっているかもしれないな、と思うニュースでした。

されどムートンは変わらず

2008 / 02 / 29

突然ですが、私はお酒が好きです。一番好きなのは食後にカルヴァドス(リンゴのブランデー)を飲むひとときですが、カクテルや日本酒なども好んで飲みます。ですが、ワインは飲むものの好んでいるとは言い難い状態です。

ワインに悪酔いしやすいとか色々理由はあるのですが、一番大きいのは「種類が多すぎてよくわからん上に学ぶのにお金がかかりすぎる」ということでしょうか。

日本酒の銘柄は、恐らく日本中を合わせても一万には満たないのではないでしょうか。その中で有名な銘柄は限られますし、最高級の銘柄でも1合だけであれば気合いで手が出ないこともありません。そのため少なくとも、「あれがウマい!」という話を聞いたらすぐに飲みに行く・買いに行くことが出来ます。まぁ、なかなか手に入らなかったり、一升瓶しかなくて手が出なかったりもありますが。

それに対して、ワインの銘柄は世界中に数十万以上あるのではないでしょうか(詳しい数字は分かりません、ご存知の方はぜひ教えて下さい)。その上、最高級の銘柄は一生に一度も口にすることが出来ないレベルのものがあります。

私のお酒の飲み方は、どちらかというと好きなものをずっと飲み続けるスタイルです。日本酒にしても、居酒屋で見つけた銘柄を片端から飲んでみて、徐々に自分の好きな傾向が分かってきて、その方向に絞ってさらに色々試し、今ではいくつかの銘柄を好んで飲んでいます。なので居酒屋に行っても大体ひとつは好みの銘柄があり、新しいのも試しながら最後はそれに戻ります。

そのように、好きなものを探して繰り返し楽しむのが好きな性格なので、それをワインでやろうとしたらどれほどのお金と時間がかかるかを考えて怖くなってしまうのです。

とはいえ、ワインには様々な伝説や逸話があり、そういったものはとても好きです。中でも一番好きなのは、世界で最も有名なシャトーの一つであるシャトー・ムートン・ロートシルトの当主のエピソードです。私もものすごく調べたわけではないので、もし誤った記述があればご指摘ください。

さて、ロートシルトとはロスチャイルドのフランス語読みであり、もうひとつ同じくらい有名なシャトー・ラフィット・ロートシルトというシャトーと合わせて、ロスチャイルド家が所有しています。

とはいえこの2つのシャトーを買収したのはロスチャイルド家の中でも別の人であり、19世紀にフランスが国家としてワインを格付けした際、ムートンは所有者が移って日が浅かったために「第2級」という格付けをされてしまったのです。ラフィットはそのとき「第1級」でした。そのときフランス中のワインに付けられた格付けは、150年以上経った今でも基本的に変わっていません。それほど重い格付けだったのです。

当然、ムートンを経営していた当主は憤慨しました。そして、こんな言葉を残しました。

「われ一級たり得ず、されど二級たることを潔しとせず。われムートンなり」

それから、ムートンの当主たちは様々な努力をしました。土壌の改良や、シャトーでの元詰めによる品質コントロールや、高名な画家によるラベル作成など・・・。その努力は実を結び、やがて世界で最も有名なシャトーの一つになりました。それでも、格付けは二級のままだったのです。

ムートンは1950年代に確固たる実績を元に格付け昇格運動を開始し、それから20年経ってようやく格付けの昇格が認められました。これには大統領の行政命令が必要な程重要な手続きだったのです。そのときの当主が残した言葉がこれです。

「われ一級なり、かつて二級なりき。されどムートンは変わらず。」

もちろんこの言葉だけから決めつけることは出来ませんが、他人から例え貶められたとしても、自らの信ずる道をゆき、認められたとしても、驕らず同じことを続ける、そんなメッセージが込められているような気がするのです。

日々ダイナミックに状況が変わる中で、経営者の端くれとして考えさせられることの多い言葉だな、と思いご紹介いたしました。ご興味を持った方には、「ソムリエ」という漫画をお勧めいたします(笑)。

ちなみに、ムートンのワインを口にしたことはありませんが、本数限定で出しているカシスリキュールはとても濃厚で美味しかったです。ワイン通の方も是非ご賞味ください。

技術とそれが向かうところ

2008 / 02 / 13

偶然なのか何なのか、私が在籍していた研究室にはIPAの未踏ソフトウェア創造事業に採用された技術者が3人もいました。先日(とは言っても昨年の暮れですが)、その中の一人と話す機会があり、技術的な話や事業展開の話など、とても面白いブレストをすることが出来ました。

彼と話していて、私の中にある思いが湧き上がってきました。これは、他の未踏技術者と話していても、いえそれだけでなく多くの技術者と話していて、私が感じる思いでもあります。

技術の話はとても面白いです。「こんなことが出来たらいい」「あんな風にしたらすごいことになる」というビジョンを共有しあい、時にはそれを実装にまでつなげてしまうプロセスはエキサイティングです。

ですが、その先に何があるのかが、たまに見えなくなってしまうのです。

例えば、「ここをこうしてこういう風になったら面白いよね!」という技術アイデアがあったとします。確かに面白いと私も思いました。では、それは誰がどうやって使って、どういう風に幸せになるんだろう?という問いが、私の頭の中にはすぐに浮かんでしまうのです。

私が研究職を志して、道半ばで異なる世界を選んだのも、それが大きな理由となっていました(以前も似たようなテーマでエントリしていましたね)。自分が今やっていることは確かに面白い。でも、この面白いことの積み重ねは、誰を幸せにするんだろう?という疑問に、研究職では答えられない気がしたのです。

以前どこかのブログで、「技術者はそんなことを気にしてはいけない、面白いと思うことを追求することだけが世界を変える」というような趣旨の文章を拝見したことがあります。確かに、それも一理あると思います。面白いと思うからこそ、昼夜を忘れて没頭できる。そして、その果てにある一瞬の閃きがたまらないエクスタシーの瞬間をもたらしてくれ、技術を進歩させる。素晴らしい体験です。

その結果、原子爆弾が生まれたというのは言いすぎでしょうか。

誤解なきように言っておきますが、もちろんアインシュタインが原子爆弾を意図して作ったなどというつもりは毛頭ありません。ただ、アインシュタインが作り出した理論や技術が、彼の意図しない方に使われ、彼の意図しない結果をもたらしてしまったという事実のみを指摘したいのです。

私は別に人類が知的好奇心の追求を止めるべきとは思っていませんし、むしろ逆に科学の進歩に心ときめかせ、さらにさらに人類が様々なものを作り出すのを楽しみにしています。

私が言いたいのは、技術者であろうと科学者であろうと、自分自身が為したことの、人類に対する責任があるということです。人類という言葉が大きすぎれば、社会と言い換えてもいいかもしれません。楽しいことを行うのも、面白いことを追求するのも、とても素晴らしいことです。ですが、「後は知らん勝手にしてくれ」というのは、あまりにも傲慢ではないでしょうか。

だからこそ、私は技術や科学に対して、世界をどうしたいかというビジョンがなければならないと思うのです。そして、その方向に世界を導こうとする力と意志も。別にそれが技術者や科学者である必要はないと思いますが、少なくともそれを生み出した者として、信頼できる誰かに託すなり、相談するなり、秘匿するなり、何らかのマネージをして欲しいと思うのです。

ネガティブな話ばかりになってしまいましたが、ポジティブな面でも同じです。未踏ソフトウェアで素晴らしい、面白い技術が生まれたとしても、それが具体的に社会にとってどんな意義があるのかを問わなければ、本当に意味のある投資にはならないと思います。

技術者であれ科学者であれ、私は特権階級であってはならないと思います。そうではない人と同じように社会への責任を負い、同じように人類への責任を負っています。経営も同じですが、社会に大きなインパクトを与える可能性がある人ほど、それを日々意識しなければならないのではないでしょうか。

小説のススメ

2008 / 01 / 31

なんとか一ヶ月更新を脱却しようとしているKaiです。こんにちは。

近年、「活字離れ」という言葉をよく聞きますが、このブログをご覧の方々は最近本を読んでいらっしゃるでしょうか。 おそらく進取の気概に富んだビジネスマンの方が多いと思いますので、ビジネス書・ハウツー本を日頃持ち歩いていらっしゃる向きも多いと拝察します。

今日のエントリでは、是非そんな方々に「小説」を読んで頂きたい!ということで書いてみます。

もちろん私もビジネス書を読みますが、基本的には必要を感じた時に読むだけです。普段はほぼ毎日小説を持ち歩き、大体行き帰りの電車などの時間を使って数日で一冊読み終えます。まぁ、たまにどうしてもはまってしまうと休日に一日6冊くらい読んでしまうこともありますが。

記憶を辿ると、小学生に上がったくらいからほぼ毎週図書館に行っていました。当時の私にとって本とは小説のことであり、図書館は夢の世界でした。大体週に2度借り換えていましたので、12冊くらい読んでいたと思います。

別にそれを自慢したいわけでも何でもなく、私がそれだけの小説を読んだのは、自分が面白い・楽しいと思ものだけを読んでいたからです。そして、私はそれでいいと思うのです。

よく本を読むことを義務のように考え、苦痛を押し殺しながら次から次へ我慢して読んでいるように思える方をお見受けします。そういう方を見ると、とても悲しくなってしまいます。私にとって基本的に小説を読むことは大いなる娯楽であり、人生の楽しみの一つですから。

もちろん、時には「読まなければならない本」もあります。ですが、全ての本への接し方がそうであって欲しくはありません。

たとえば、ドストエフスキーの「罪と罰」などは好きな小説のひとつですが、「この本から何かの教訓を学ばなければ」などという肩肘張った姿勢など、私は必要ないと思うのです。もし読み始めてつまらなければ、それはまだ「その本に出会うべき時」ではないのです。

私も中学生のときに罪と罰を読み、途中で放り捨てました。そして大学生のときに読み、また放り捨てました。ですが、大学院生のときふと手に取った罪と罰は、とてもとても素晴らしいものを私に与えてくれました。

それでいいと思うんです。どんなに素晴らしいものを秘めた本でも、自分が必要としていない時に読んだところで何も響きません。ただ、一度さらりとでも目を通しておけば、いつか必要とした時にもう一度手に取るきっかけにはなるかもしれませんが。

さて、ここまで敢えて「本」と「小説」を混ぜて使ってきましたが、いわゆるビジネスマンが勉強のために読むものと、楽しみで読むものとは全く違うアプローチで考えて欲しいと思います。ここからは、楽しみのために読む小説を「小説」と表現して話を進めさせていただきます。

例えば、今あなたが「小説を読みなさい」と言われたら、何をすぐに思い浮かべますか?ベストセラーの第一位?泣けると評判のあの本?私は、そういう選び方は小説に相応しくないと思います。何かを学ぶためのビジネス書ならば、きっと多くの人が多くを学んだ本に、大きな意味があるはずです。ですが、小説はあなたの好きなものを、好きなように読めばいいだけです。

私はとりあえず何でも読みます。ドストエフスキーの描く苦悩も、夏目漱石の流麗な日本語も、ハヤカワSFの奇想天外な世界も、ライトノベルのほんわかした空気も、全部好きです。そして、それが好きだということ、読んでいて楽しいということは、自分にしか分からないものです。

だから、どうかまず楽しむために小説を手に取ってみてください。そして楽しくなければ、楽しい小説を探してみてください。人に下らないと言われようと、苦笑されようと、自分が面白いと感じれば、きっとそれは素晴らしい小説なのですから。

ちょっと遅い新年のご挨拶

2008 / 01 / 18

既に松の内も過ぎてご挨拶もないものですが、今年も宜しくお願いいたします。新年最初のエントリは去年の反省と新年の抱負にしようと思っていたのですが、最早時期を逸してしまいましたので普通に更新します。

さて、ご存知の通り、弊社は携帯電話のサービスを展開しています。携帯電話ユーザの主役といえば、10代の若者。モバゲータウンの例を引くまでも無く、新たなケータイ文化を作り上げているのは、間違いなく彼ら・彼女らでしょう。

ところが、弊社の平均年齢は20代後半。ケータイ文化の主役とは10年の開きがあります。そんな中で日々思うのは、「自分の当たり前を疑え」ということです。例えば、私の世代はちょうど思春期にWindowsパソコンが花開き、興味があった人は小学生〜高校生くらいでパソコンを触り始めています(私が初めてプログラムを書いたのは小学校5年生でした・・・今は懐かしいLOGOでしたが)。私にとってはパソコンがある生活が余りにも当たり前で、携帯電話はその後に登場したものです。

ですが、今まさに思春期を迎えている人たちは、恐らくパソコンよりも先にケータイに触れる人が圧倒的に多いのではないでしょうか。そこには、私が当たり前だと思っていたことが通用しない世界がありました。例えば、「パソコンのキーボードの方がケータイより便利」ということ。

本当に驚いてしまったのですが、私の母校の図書館で、最近新入生が「検索用パソコンなんか設置しなくていいからケータイで出来るようにしてくれ」という意見を出したそうです。私は、「ああ、どこにいても、移動しながらでも使いたいんだろうな」という理由をすぐに思い浮かべました。ですが、彼の主張は違ったのです。なんと彼は、「パソコンのキーボードが訳分からない。携帯で入力したい」と言ったらしいのです。

これは衝撃的でした。私の中で、パソコンからケータイという流れは、いつでもどこでもというキーワードと余りにも密接に結びついていたため、他の理由が想像できなくなっていたのです。

ですが、よく考えてみると、きっと彼は物心ついてからほとんどパソコンを触ることなく、ケータイのインタフェースに親しんでいったのでしょう。そんな人が、ケータイの方が入力しやすいと思うのは極めて自然なことです(もちろん、パソコンに習熟したら分かりませんけどね)。

これは小さな例ですが、ケータイに限らず、自分自身の常識は決して他の人の常識ではないことを意識するようになりました。すると、世界の見え方はずいぶん変わります。ニュース一つ見ても、「ひどい話だ。信じられない」ではなく、なぜその事件が起きたのか、同じ立場・境遇だったらどう感じるかを考えると、思ったよりもずっと深い世界が広がっていたりします。

自分自身が常に少数派かもしれないと思って生きていくこと。そして、必ず他の人の言葉に耳を傾けること。もちろん最後に自分の道を決めるのは自分自身なのですが、その姿勢を忘れてはならないと思う今日この頃です。

蛇足:ブログのネタ帳は溜まっているのですが、まとまった時間が取れず中々更新できません。ちょっと一度の更新量を減らし、代わりに頻度を上げてみようかと思っていますので、お付き合い頂ければ幸いです。